瓜破っ子である。生まれは東淀川区らしいし、その後は平野区長吉に住んだらしいが、僕の記憶は瓜破から始まるので瓜破っ子である。
瓜破とは「うりわり」で、大阪では難読駅名として割に有名な大阪メトロ谷町線の「喜連瓜破(きれうりわり)」という駅名にもくっ付いている。この駅名は駅北側の「喜連」という地区と南側の「瓜破」という地区の合体で、「喜連瓜破」という地区は存在しない。その瓜破、大阪市平野区瓜破での話である。
阪神タイガースの監督をしている矢野さんが瓜破出身である。矢野さんは瓜破小学校(瓜小)出身らしいが、僕は瓜破北小学校(北小)出身である。北小は瓜小のほぼ真西にあるのだが「北」小だ。なぜだかは知らない。北小からさらに西やや南に行くと瓜破西小学校(西小)がある。こちらは正しく「西」小である。
北小はその校区の東端に位置し校区内のほとんどは府営住宅で高層の市営住宅も2棟含んでいる。僕はその府営住宅の子だった。いわゆる団地っ子である。当時のことだから大変子どもは多くて全校生徒が1,200人程度いたはずである。そのほとんどは団地の子だったので、特に周りと比べて貧しいと感じることもなく、むしろ戸建に住んでいる子はお金持ちで、自分たちのような子らが普通だと思い込んでいた幸せな時分だった。
小学生として過ごしたのは昭和50年代である。当時平野区は大阪市といってもずいぶんと田舎な雰囲気で、田んぼや畑、空き地がその辺りにゴロゴロしていて遊び場に困るということはなかった。家から小学校までの通学路にも一部だったが田んぼや畑があった。
通学路の楽しみがあるのは主に帰り道のことが多い。行き道で楽しかったことといえば、冬の寒い朝、水溜りに氷が張ったりしたのを踏んづけていくくらいのものだったろう。
あの頃の団地内の道はアスファルトで舗装などされていなかったから、雨が降れば水溜りができて、冬の朝に冷え込めばそこには氷が張ったものだ。冷え込みといっても北国のそれを思えば大阪などかわいいもので、水溜りに張る氷も薄氷で、踏んづけるとすぐに割れてしまう。子どもたちにとっては寒さを紛らわすためのいい遊びである。朝、出るのが遅くなってしまったおりなどは、学校までの氷が全部見事に割られてしまっていてなんだかとても残念な気分だった。
学校を出るとその塀を東向きに回り込むと道路にあたる。現在は内環状線(国道309号)になっているが、当時はまだ細い道路で自動車も少なかったように思う。その手前に犬小屋のある家があった。その犬に給食の残りのパンをくれてやるのが日課だった。みんながパンをやるものだから、きっとあすこの犬はたいそう不健康な食生活だったに違いない。
道路を渡ると両側が田んぼになっている細い道を通る。田んぼの間の畦道が通学路になっているのだ。距離はいくらもない。小さな田んぼ一枚ぶんだけである。
春先から秋まで学校帰りはそこが格好の寄り道スポットになる。なにせ生き物がわんさといるのだ。おたまじゃくしにカエル、カブトエビ、アメンボ、ミズスマシやザリガニなんかもいたように思う。とにかくそこで裸足になってランドセルを背負ったままジャブジャブと田んぼの中に入っていって生き物を捕獲することに夢中になる。持って帰ると母親に気持ち悪いと怒られるのでその場で放してやるのだが、弄ぶだけ弄ぶのだから生き物にとっては迷惑な話だ。
でもたくさんの子どもたちに弄ばれた生き物もいなくなることはなかった。いなくなったのは田んぼがなくなって駐車場になってからのことだ。
田んぼを過ぎて細い道路を渡ると団地エリア内に入る。この団地エリアに入ったところすぐにも、時折立ち寄りスポットが開設されていることがある。どこから現れるのか知らないが、型抜きのおっちゃんや針金細工や飴細工のおっちゃんが座っていることがあるのだ。
中でも型抜きのおっちゃんはなかなかの頻度でいたように記憶している。「こんなもんできひんかったら、目ぇ噛んで死んでまいなっさーい!」という名台詞は今でもその口調とともに記憶に残っている。
型抜きは苦手だったので実際にやった記憶はあまりないのだけれど。
団地内に入ってからは給水塔の横にたまにくるポン菓子の軽トラックも懐かしい。甘い匂いをさせて誘うのだが、これは米を持っていかないとダメだったので学校帰りに寄ることはなく、もっぱら家に帰ってから母親に米とお金をねだるのだった。
ネットもゲームも普及していない時代の、今から考えるとのんびりとした、只の想ひで話である。