昭和の想ひで 五 保育園のこと

つくし保育園は府営瓜破西住宅から北に1.5kmほどのところに、僕が通っていた当時のままの姿で現在もある。本当に当時の建物かと思われ、いい加減リニューアルした方が良いのではないかと余計な心配をこちらがしてしまうほどである。

僕はこのつくし保育園に年中さんから年長さんになる前まで通っていた。年長さんになるときに瓜破北小学校の目の前にある瓜破北幼稚園に変わった。はずである。あまり正確なことは記憶にないのだが、僕の経歴など正確にしたところで無価値なので調べていない。

「石ころでござる」という今で言うとダンスパフォーマンスなのだろうか、をお遊戯でやったことがある。その中に扇子を広げる場面があるのだが、その頃の僕はなぜかどうしても扇子をうまく広げることができなかった。本番の舞台の上でもやはり扇子は開かず、舞台袖から先生が出てきて扇子を広げて僕に持たせてくれた。

扇子を広げることができないということがとても恥ずかしくて、練習の時からできなかったにもかかわらず母に言うこともできず、本番の舞台を見た母が帰ってから広げ方を丁寧に教えてくれるとあっさりと扇子は開いた。そのときの僕はきっと泣き笑いの複雑な表情を浮かべていたに違いない。

乳酸菌飲料の空き容器を使った人形を作る工作だった。容器の上に紙粘土で作った頭を載せて、服をつけて完成だった。僕はどうしても上手にできた、きれいな服が欲しかった。

僕の母は洋裁が得意で仕事にしていたくらいで、洋服なら何でも作ってしまう人だった。僕は僕の人形の洋服を母に作って欲しかった。

「保育園で人形を作った。この人形に着せる服を作ってもらってきなさいと言われた。」

僕は得意顔で母に作ってもらった服を保育園に持っていった。そして自分の人形にその服を着せて先生に見せた。「まぁ綺麗ね。お母さんに作ってもらったの?お母さん上手なのね。」と先生は言わなかった。烈火のごとく先生は怒った。きっと僕は半べそかきながら、自分の手でへたくそな服を作った。

保育園で作った作品をちゃぶ台の上に並べて撮影した1枚の写真がアルバムにある。その人形もきちんと母の服を着て並んでいる。その写真を見るたびになんだか切ない気持ちになる。アルバムは今もどこかにあるはずだけど、すぐには探し出せない。まぁ写真を見なくても、頭の中に苦々しい思い出とともに思い浮かべることができるのだけれど。

遠い昔の只の想ひで話である。

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